11年08月18日
さて、ハノイはこれくらいにして、日本に戻るとしよう。それもこてこて日本の浅草に行きたいと思う。
浅草にはあやしげなモノが多い。その代表格といえば、吾妻橋の前にある「うんこビル」だろう。アサヒビール本社に隣接するスーパードライホールの屋上にあるオブジェのことだ。その形や色から、このように呼ばれている。もともとフランスのデザイナーであるフィリップ・スタルクが、「金の炎(フラムドール)」を表現したかったそうだ。アサヒビール本社ビルも金ピカなので、このような不名誉な名称になってもしかたがない気がする。
それにしても浅草の風景からすると、あまりにも非常識だと思う。日本の奇観な街並みを象徴していると評する人もいる。もっとも、先日ある出版社の編集者(SFC卒)と話していたら、いろんなモノがあるのが街の楽しみで、刺激のひとつとしてとてもいいと思うと反論されてしまった。子供の頃から通っている私にとって、昔の浅草に憧れている面はぬぐいきれない。
浅草の風景は江戸文化のシンボルだ。浅草寺や仲見世通りを見物するために、外国からたくさんの観光客がやってくる。その人たちのためだと思うが、なんとも奇妙な着物を着ているマネキンによく出会う。煎餅や団子などの食べ物はさすがに西洋化することはないと思うが、着物は別のようだ。
なぜ、奇妙に見えるのかというと、帯をしめる位置が少々高く感じるのだ。もちろん、日本人の足がだんだん長くなっていることもあるが、西洋人マネキンはスタイルが極端にいいのかもしれない。ただ、着物は生地や柄や色だけではない。着方があってはじめて文化になるのだ。もちろん、外人向けの観光土産の変わった柄や色なので、そうむきになることもないが、あまり文化をゆがめないで欲しいと思うのだ。
私が浅草にこだわるのは、我が家の慣習で、子供のころから毎年初詣に行っていたからだ。それに大学のときにアルバイトをしていたのも浅草だ。20歳までの若かった頃の思い出がつまった場所なのである。
そのひとつに「ヨシカミ」という洋食屋が浅草六区にある。『旨すぎて申し訳ないス!』という宣伝文句とともに、50年間多くの人に愛されてきた食堂だ。観音様にお参りしたあと、ヨシカミに行って、オムライスやメンチカツレツを食べるのが楽しみだった。実は食べ物よりも、そこで働いていた性別不明の店員を見たかったからだ。今でいうオカマなのかもしれない。怖いもの見たさの子供心だったのだろう。その人がいなくなってから、ヨシカミに行かなくなってしまった。
昭和30年代の浅草六区は東京歓楽街の象徴だった。映画館や劇場が並び、たくさんの人びとでにぎわっていた。全世帯にテレビが普及し、若い人たちが渋谷や新宿などの新たな街で楽しむようになると、浅草六区の存在が薄れてきた。
現在の浅草東洋館は浅草フランス座と呼ばれていた。ストリップの幕間に、寅さんの渥美清や関敬六、コント55号の萩本欽一と坂上二郎がコントをやっていた。その脚本を書いていたのが井上ひさしだった。ストリップはなくなったが、今でも漫才やコントをやっている。ただ、今の浅草六区には昔の面影はない。パチンコやビデオやサウナなどの看板が立ち並ぶ風景になってしまった。
東洋館のすぐそばに松竹演芸場があった。そこで観たデン助劇場は面白かった。デン助(大宮敏光)が主人公の生活コメディだ。テレビでもよく観ていた。そんな思い出を浅草の記号にしたい。
小川克彦